考えること
なんで、こんなにおかしなことが起こるのだろう?
素敵な人が現れるようになった。ウソでしょ!?というほど、可笑しいくらい。
一人は、いわゆるクライアント。私よりかなり年上の方だと思う。とんでもなく教養があって、知性があって、それなのに、人間的な気配りができて・・・。もう、私などほんとにもう、足元にも及びません、という感じ。すごすぎて、何とも表現ができない。細やかな気配り。思いやり。こんな風に人を気遣える方もいらっしゃるんだな、という感じ。中島 敦の「弟子」の中に、孔子のことを「なんにでも秀ですぎて、一見平凡に見える。」というような表現があったが、もしかしたら、こういう人を言うのだろうか。高校の先輩に、同じ大学の同じ学部に現役で入った人がいて、いろいろ優秀な先輩もいらっしゃる中で、「○高始まって以来の秀才」と謳われた方がいらしたが、はっきり言って、明らかに普通ではなかった。どうして、そんなに普通で、しかも大人な分別もあって、どうしてそんなに何もかもできるんですか?とお聞きしたいが、そんな立場ではないので、絶対口には出さないだろうと思う。
もう一人は、とんでもなく若い人。
普通、そこは気にせず、自分のことだけ考えるでしょ?と思うのに、経営者としての私の立場を考えてくれて・・・。雇う側の都合を考えて、そんなことふつう考えんやろ?みたいに言われるのは、私の専売特許だったはずなのに・・・。私は、今度は逆に、そのセリフを言ってしまった。ちょっと深くて、私の浅慮で判断してはならないな、とその言動を見ていて思わされることがある。一般的な考え方でものを見てはいけない人もいる。事実、自分も、かつて、自分自身としては、誠意でしたことを、すごく違った判断をされて、泣きたくなったことがあった。そんな思いを人にさせてはいけないと思う。
世の中、捨てたもんじゃない。
ついでに・・・。
先日、ジュースを買いに行った。いつものことだけれど、二本買った私に、そのまま持って帰ろうとするのを、ビニール袋を広げて、「なん、入れてあげるよ。」と言って、「もったいないからいいです。」と言うと、「入れてあげるよ。おてて、濡れるよ。」なんて言ってもらった。なんだか可愛がってもらっている子どものようで、なんだか心がほっこりした。いい年をした人間が、と時折そのギャップに笑わされるが、よく子ども扱いされる。でも一方で、教師扱いされる。どこに行っても。そのギャップを埋めるのに苦労することがある。
今日も、教室で仕事をしていて、それから仕事モードで外出していて、教室に帰ってきて、今度は英語のレッスンを受けた。さすがにスイッチが切り替わらず、仕事の緊張感が抜けず、なかなか生徒の気分になれずに困った。
昔から、どこでスイッチを切り替えているのか、いろいろな自分と出会う。後輩に厳しいことを言ってる私。子供たちからちょっと人気者のおばちゃん。受験指導で、思いっきり厳しいことを言ってる講師面した自分。かと思えば、予備校時代、個別指導の生徒から、指導ごとに毎回、チロルチョコをもらったり、いろいろ。自分の作ったお料理をおいしそうに食べてくれる人の姿を見るのが好きな自分。野球応援して、バカみたいに大声張り上げている自分(高岡商業の今年の甲子園での試合は、O先生と、二人の生徒と4人でしっかり最後まで応援した。)。どれも本当の自分の一部なんだろうけど、どれが一番自分らしいのかわからないし、わからないままでいい。でも、たぶん、これが一番の本質だろうと思っていることは言わない。恥ずかしいから、絶対見抜かれている人にしか、あるいは見抜かれる人にしか言わない。
いつかその本質が顕れて、そして、そこから派生する私の能力(?)が生かされるときが来るのだろうか。