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もうすぐクリスマス♡今年一番目の合格!


なかなか書く時間がなかったけれど、今年初の合格の報告は、先月末にあった。

受験前、まるで駆け込むように小論文指導に現れた彼女。

数年前、お兄さんも、この時期指導していた。

二人とも、私には、結構、言いたいことを言っている、という印象があった。正直。

普通、ちょっと教師、という立場の人間には言わないだろう、という表現をされる。

お母さまと私は、コミュニケーションもうまくいっているし、どうもどちらかと言えば、変な言い方だけれど、仲がいい、と思われた。本音も言ってくださっているし、楽しいジョークも言ってくださる。

なぜだろう?性格的な問題かな?

私みたいなタイプとは、あまり接してこなかったのかな?

私は、文化系の部活を通ってきたけれど、それこそバリバリ体育会系のスパルタ教育を受けてきた生徒さんには、私を理解しがたいのだろうか?と思っていた。

合格されて、その日には連絡がなくて、それで次の日お母さん二人で現れたときに、少々言葉が出ない状態だった。なんて言えばいいのだろう・・・?

それで、思い切ってお母さまにメールしてみた。

どうも、私はお二人(ご兄妹)にあまりよくは思われてはいないみたい・・・、というような。何があるのかな?という気持ちで・・・。

何言ってるんですか?○○(お兄さん)の人生の恩人じゃないですか!と返信されて、少しばかり打ち明けてみて、お二人がどういう状況かを教えていただいた。

ああ、そうか・・・。

私にだけ、感情を出していたんだな。

私がそのことを知らなかっただけなんだな。

と思わされた。

今も、時折、なんで?という生徒の表現にぶつかる。

誰に相談してみても、ええっ?そんなこと言うの?みたいに言われるような事柄であったり、表現の仕方であったりをぶつけて来られる、ということがある。

そんな時、私はいろいろ考える。

個人的な、まあ、プライベートなら、離れるだけ、というようなことであっても、仮に、誰が訊いても酷いことであっても、相手は生徒さん。

その表現の後ろに何がかくれているのだろう?

社会に出て、それが通用しないのだとしても、一応、教育している側の私。

そういう表現をしたら、誤解されたり、あるいは、いろいろ楽しくないことが起こる可能性がある場合、もちろん、私の、ほかの生徒さんへの指導に影響するほど、私に対して、ちょっと堪えるようなことならば、どうしようもないが、そうでなければ、それはきちんと指導していかなければならない。

大体において、保護者の方と相談してみると、表現の裏には事情がある。

今、実は○○な状態なんです。これで悩んでいて・・・、などという背景を教えていただけることがある。

注意をされた、みたいに、受け止められ、私が、気を悪くした、という解釈をされてしまったら、そこで指導は止まる。終わるのではないかもしれないが、一度そこで止めなければ、つまりは私が、その指導から降りなければ(指導を辞めるのではなく、しばらく時間をおく、という意味で。)、こじれてしまう。

教科指導だけで、効率よく、進められるものではない。気持ちの整理の出来ていない生徒さんの心を整理するお手伝いをするのも私たちの仕事のうちである。

先日から面談が続いている。深夜に及ぶことも、ままある。

受験生でない場合は、少し待っていただくこともあるが、受験生の場合は、喫緊の問題となるので、すぐに対処する。

などと書いているうちに、自分が、何に取り組んでいるのかがわかってきた。

そうして、なんでこういう指導の形態になるのかも。

すべては、新卒の学校で教わっていた、先輩方の姿からだ。

「お前のその態度だったら、みんなはどう思う?立派な人間になるためには、一生懸命努力したり、周りが分かってくれるようなレベルで、着いて来てもらえるような自分にならなければ・・・」などと生徒を指導され、若い私自身も教育してくださる先輩方の姿が私の心の残っている。

生徒の態度に怒ったり、バカにされた、などというようなレベルではなく、生徒の人生を慮って、一生懸命に、指導されていた先生方の姿がある。

勉強だけではなかった。

器であるとか、人徳であるとか、なんとか世間で通用する、周りの人と協力して人生を構築していく力を身に着けさせようと必死に頑張っておられた。

勉強ができるから、などというレベルで、もしも天狗になったり、頭を上げたりしたら、それこそ厳しく叱られている生徒たちがいた。

誰のおかげで勉強させていただいているのか、と考えさせられたし、下働きをして、支えてくださっている人たちへの感謝を忘れたりしたら、厳しく叱られていた。

たかが私塾、かもしれない。

でも、私は、学校現場で働くのと同様に、この教室を考えている。

そうそう、もうすぐ全国紙の雑誌に広告が掲載される

20代から30代の女性対象の雑誌だが、新しく始める、教育だけに限らない活動面での広告である。

大したことのない広告を掲載するのに、そうして掲載が決まってから、相手の方と、とんでもない長い時間、おしゃべりしていた。私がカウンセリングを受けているような状態だった。実は、新しいことを始めろ、と周りから勧められて(教室の活動を派生した形)、HPは作ったものの、そうして、雑誌には掲載されたものの、忙しすぎて、今、そんなもの載せられたら、私はどうなるのかと心配で・・・、と相談してしまっていた。

それから、来年3~5月に発売される雑誌に、また記事が掲載される。

新しい教育の仕方、独自の教育をしている私塾として、あるいは、それ以外の活動に対しての記事。

ものすごく丁重に依頼してくださった。なんで掲載したいのかという理由を、お忙しいであろうに、一生懸命に話してくださる。

あちこちから電話で、依頼を受ける。

先生の活動を知ってもらいたいんです。とか、たくさん本をいただいて、私は何をしているんだろう?というような特典付きの掲載であったりする。

大都会の真ん中からのお電話。。

こんな、精神的な話が通じるの?このご時世、世間はビジネス、ではないの?

私は、ついつい心の中で問うてしまっている。

それから、高岡市役所で流されている教室のの掲示板のデザインが変わる。

そのデザインを考えてくださる人も、最初は、なんだか事柄的だったのに、だんだんいいものにしようと、期間的にも、デザイン的にも、かなりの工夫をしてくださって、しかも、メールでのやり取りが基本なのに、電話であれこれ打ち合わせ、ということになってしまっていたりする。

こういう話、開校してからどれほどあったことだろうか?

私に対してではないような気がする。

新卒で勤めていたころ、先輩方が行っていらした活動を、なぜか私を通して、世の中に知ってもらうために、たまたま自分が、ここにいて、なんとか、その教育や活動を、伝える役割を与えられているような気がしてならない。

何ができるだろうか?

どこまでできるであろうか?

とにかくやってみるしか、私にはできることはない。

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