ときどき辛くなる勘違いー高岡の個別指導塾チェリー・ブロッサム

昨日、たまたまほかの生徒がお休みだったことがあり、ある生徒と話していた。
何の文脈だったのだろうか?
私の同級生の話や、友人たちの話など、あっち行ったりこっち行ったりしていたその後、
僕、大学行ったら塾で教えたいんですよ・・・。
とのことだった。
ややあって、
国立の難関大と、その辺の私立だったら、教える人はどんな風に変わるんですか?
と言われて、頭の中は???になった。
まずその辺の私立の定義が分からないので、
まあ、その辺の私立ということは早慶はまず抜かして、関関同立やMARCHということかしらん?
と訊ね始めた。
そういう考え方をしたことがなかったので、どう答えていいのか、彼が何を聞こうとしいているのか探ってみる。
東大生は時給5000円とかネットに書いてあるから・・・。
おお、時給のことか?
とまた話を続ける。
確かに、大阪の私立高校で働いていたとき、大阪市立大学の医学部に進学した卒業生が、後輩に何か差し入れしたてくれた折に
一回家庭教師に行った分。
と言っていたので、何時間かはわからないにしても、そう高くはない。
こと教育産業の世界では、実力主義で、なおかつ、実績主義である。
大学だけで何かが決まるという経験をしたことがない。見聞きしたこともない。
大学時代に個別指導塾でバイトしていたことがあったが、これができるかそうでないか?ということだけが問題で、どこの大学生だから、○○という相関性などなかった。
私は文系だけれど、高校数学を指導していてとんでもなく重宝がられたし、国文科だというのに、むしろ国語を教えるよりは数学を教える方が得意だったのではないだろうか?英語も社会も理科もそうだった。
その質問の違和感はその後も続き、なんでこんなに引っかかるのだろうか?と考えていた。
要するに、どこかの大学に入りさえすれば、何でもできると思っているところだということに気付いた。
大学に入れば、何でもできるようになるなんて、そんなことはない。
京都という土地について、同僚が言っていたが、
〇大生が定食屋でバイトする贅沢な場所。
と言っていた。
そうそう、大学時代、もちろんお金を得るためというのもあるけれど、いろんな経験をするためにあるという面もある。
焼き鳥屋さんなどでバイトして、思い切り稼いで、卒業後の初任給を見て、その金額の低さに愕然とした、という話もあった。
講義を受講していた先生の話である。もちろんいわゆる一番の難関大ご出身である。
わが母校の高校時代の同級生たちの考え方を思い起こしてみても、誰もその辺の私立などという言葉を発する人はいなかった。
あからさまにそういう表現をしないということもある。
でも、その辺の私立に入れていただけるかどうか、成績だけで決まらないことも十分に知っていた。
そう考えると、かつてもみんながそうだったけど、謙虚だと思う。
国立一本の受験する男子が、私立を押さえてきたお付き合いしている彼女に向かって、
もうこれで僕は落ちることができない・・・。
と語ったという話を聞いたこともある。自分は十分に合格する力があるというのに。
母校からだったら、もっと偏差値の高い大学を、と思うだろうに、
○○大って、運動もできて勉強もできなあかんから、優秀やねんてなあ・・・。
と話してみたり、芸術系の学部について、
実技も勉強もせなあかんから、大変やねんなあ・・・。
などと話していた。
自分が受験もせず、ましてや受験しないのだから合格もしない、幾分偏差値の低い大学についても、自分が入れるかどうかということは別物として考えていた。敬意があった。
神仏の多い関西だから?
それとも世代の違いなのだろうか?
言ってはならない言葉というものがあったし、自分を冷静に見る目もあったと思う。
自分が勉強している間に誰かが何かを頑張っているかもしれない。
それをちゃんと評価する目があるというか。
私、何にも生徒に伝えられていないのかな?
となぜか昨日落ち込んでいた。
冷静に分析して、いつの間にか高校時代の会話を思い出した。
新卒で働き始めた時も、
みんな謙虚やったな。
と思っていたけれど、やっぱりみんな謙虚だったと思う。
できることとできないことをきちんと切り分けて考えていたというか。
ちょっと勉強ができるということにだけ注目しないというか。
大学に入って、ちゃんと家庭教師や塾の先生をやってみて、ちゃんとした仕事ができるかどうかというのは、大学と必ずしも連動しない。
ちゃんとそこから努力しなくちゃ。
おそらくは、彼は、丸山真男の「『である』ことと『すること』」の論で言えば、「である」ことで生きていくタイプなんだろうなと思ってみたり。「である」ことでずっと生きていけるほど、世の中は甘くないと思うんだけどな。
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