とつおいつ考えている、と書いてみて、「取りつ置きつ」から。
よく、とつおいつ・・・、という表現をするけれど、書こうとして、平仮名で書くことがためらわれて、でも、副詞だから平仮名でいいわけだし、むしろ副詞は漢字で書いてはいけない、と注意されたことのある世代なので、それはいいけれど、語源的に、漢字ではどう書くのだろう・・・?と思って調べたこと2回目である。
数か月前、受験指導で手一杯の頃、何かの折に調べたのを覚えているので、まだ最近のことであろう。
取りつ置きつ、と書いてみると、大変にその意味合いがわかる。
取ってみたり、置いてみたりして、なんだか迷っている感じ。
私にとって、なんだか今でも高校時代について、とつおいつ考えていることが多い。
勉強をする、という価値観のみでものを考えていたのだと思ったのですが、違和感の正体を言い当てた人がいて、どうもその方も、超進学校のご出身だったらしく、もう、何十年も考えてきたことに、答えを出してくださったようだった。
また、たまたま出会った人に、
先生は、当時の自分を助けたくて、この仕事してるんじゃないかなあ・・・?
とじっと目を見つめて言われたときに、自分がやりたい教育というものの正体がわかってきたように思った。
いやいや、高校三年間は、ある意味、学校の方針によって生活するのは当たり前である。
その校風や、伝統もある。
ただ、勉強、というより、何かが違っていた。
中三時の担任の先生が、美術の内申点が相当に悪くて、危なかった入試を受けさせてくださったというのに、入学してみて、私は、なんとも言えない違和感を感じていた。
友達にも、合ってない、と言われ、先輩にも、お前はホンマにI高生か?裏口ちゃうか?と言われるほどの合わなさだったのである。
今なら、その合わなさを、自分のせいにだけはしないだろう。
別に、そこまで勉強が嫌いだったとも思えない。
サッサと現役で、高校教諭になるために大学に入ってしまった。
当時、高2までは追い掛け回されていた数学も、今も覚えていて、質問されれば答えてしまう。
自分より偏差値がはるかに低い大学に入学した友達も、I高をそこまで意識していない。
校名だけ聞けば、名誉、ということにもなるだろうし、自分で言ったら、自慢にも聞こえてしまうかもしれない学校ではあるけれど、私は言わく言い難い違和感を持ち続けた。
唯一に近く、劣等生の気分も味合わせてくれた、人生でも大変に意味のある時代だった。
けども、私は、ときに、みんながいい、と言っているものに、違和感を感じている自分を忘れられなくて、今だとつおいつ考えていた。
その理由を言ってくださった方は、とんでもない人だなあ・・・、と思っている。
でも、どこかに愛校心もなくはない。
青春そのものがあり、一応青春、という感じのことは一通り経験させてもらった。
でも、思うに、私はもうちょっと、考え深かったのだろう。
青春謳歌するには、きっと一番悩み多い時代だったのだろうと思う。
ただ、ちょっとホッとするのは、偉大な先輩で、ノーベル賞受賞者の先輩も、どうも、あまり母校がお好きではなかったようで、そこは国文科、というくくりにしておいてはいかがかしらん、などと思ってみたりしているのである。
せめて、進学校に入学したものの、ちょっと合わないな、と思っている生徒さんの役には立てるかな?と思っているのである。成績だけでは埋められないものもあるから。そして、幾分気持ちを客観的に見ることができるようになり、割り切って勉強するためのお手伝いはできるかな、と思っているのである。勉強を教えるのは、得意だから・・・。というより、一番簡単なことでもあるから。
問題は、勉強以前のところにある。
勉強がわかったら、楽しくなる、とはいうものの、それ以前のところで立ち止まっていることは意外に多いものであるから。
ちょっと気持ちの整理がつけば、勉強はもともとできるのだから、ある意味簡単なのである。
人間関係の絡む部活より、自分がやれば済む勉強ほど、簡単なものはないのである。
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