まあね、いろいろあるから・・・。
祈るということは大事だと思うのは、だいたい人為で何とかなるものなどそうそうないということに気づいたからである。
あまりにも若い話になるけれど、それまで自分が努力したことは、努力したなりの結果が出やすかったけれど、結婚して相方の昇進や、子どもたちについては、自分が努力したからと言って、どうにかなるものでもないなあ・・・、とつくづく思ったのである。
自分のできることなどたかが知れてる。(笑)
人間関係を構築していく力、決して勉強だけではない力が問われたりもするし、家族間の協力も必要である。
それに、何も昇進したり、成績がいいということだけで何とかなるほど人生は甘くない。
祈ることは大事だと思う。
特定の宗教とかでなくても、自分より高次の、造物主というか、人ではない何かに見られている感じというのは大事だと思う。
人が見ていないところでいかに自分が行動できるか?
できるなら裏表のない自分でいられるか?
それが実力になってくるような気がする。
もう一つ、その人の実力が問われるのは、むしろ昇進したり、いいことがあったときではない。
左遷されたり、閑職にやられたり、受験で言うなら、落ちたとき、窮地に陥ったときにこそ、その人間の真価は問われる。
うまいこと言っているとき、しあわせいっぱいの時に、その人を見ても、つまらない。
真価はわからない。
第一、自分を取り巻く人の本質を見抜くことができるのも、うまく行っていない時である。
うまいこと言っているときに、周りの人の姿は、はっきり見えない。
うまく行っていない時、ある意味、自分が弱い立場に立たされた時に、人の姿が見えるとともに、自分がそこをどう乗り越えていくか?ということを問われるし、最も自分の真価が問われるし、一番鍛えられもする。
仕事の面では比較的恵まれてきた方と言えるかもしれない。
というより、教師をしていると楽しいので、そうそう苦労など忘れてしまうのかもしれないけれど、それでも、いいときのことなど思い出さない。
高校時代然り、大学時代然り、そして仕事でのことなど、大変だった時を何とか乗り越えたときのことしか思い浮かばないし、それが、最も楽しい思い出となっている。
新任で勤めた一年目など、これが長い間憧れていた教師という仕事か・・・、と、週番をしたときに、校内を見回って、なぜか窓ガラスのカギを閉めていたときに思った。
その二年後、泣く泣く大好きな学校を辞め、結婚することを幾分か寂しいことと捉えるようになろうとも思わずに、正直、転職したろか・・・?それも、もっと忙しい業界を狙っていたりしたのである。
その一年を経て、二年目からは結構やりたい放題仕事をし出した。
でも、一番思い出すのは、一番大変だったころである。
若い時を懐かしんだり、若いころはよかった・・・、という説もあるけれど、それは私にはわからない。
なぜなら、ある程度年齢を経て、経験を積んでいる今の方が、それに読んだ本の数も増えた今の方が、生きていくことは格段に容易になって来ているからである。
若いころの苦悩をもう一度やれと言われたら、まっぴらごめんである。
子育ては楽しかったけれど、あの苦労を、もう一度我が子に対してしろと言われたら、それは骨が折れるから勘弁してほしい。
けれど、思い出になってしまったことは、その苦労した時代が一番愛おしい。
それでも、若いころがいいな、と思うのは、たくさん苦労ができること。
失敗をたくさんしてもいいこと。
すべては経験へとつながっていることである。
何でもしたらいい。
それから、成功者が少数であればあるほど、常識とはかけ離れているということになる。
ということは、変わっていたり、ほかの人と違う要素は、もしかしたら、自分が成功に近い人間であるのかもしれない。という考えがあることを最近知った。
個性的、ということで生きて行きにくい人もいるけれど、ドラゴン桜よろしく、馴染めない方が、起爆剤になって勉強するかもしれない。
何も青春時代が楽しいだけがいいというものでもない。
居心地悪いから、勉強するでもいい。
だいたい、人生は思い通りになどならない。
また、思い通りでは面白くない。
特に私など退屈するタイプである。
周りからあれこれ言われたり、嫌な人の一人や二人いたり、時には閑職に廻されて、なんでやねん!ということもあった方が面白いかもしれない。
長い人生の中では、そういう時期の方が、滋味があったのだということが後からわかってくる。
実力養成してくれるのは、そういうときである。
夫の会社に対して、私にこそお給料ほしいわ、というほど貢献したこともあるけれど、それは私の中の思い出であって、もちろんお給料はいただけないし、思いっきり忙しい思いをさせられたけれど、本当に学びがあったし、自分の力の限界に挑戦!という感じの時期だったときもある。
あの頃をよく思い出す。
札幌で、力をつけた気がする。
だから、つい話してしまうほど、思い出深いのである。
周りから見た状態では、自分の中での熟成は見えない。
そんな時、今の苦しさを、いつかにつながると信じて、頑張るときに、ちょっと祈るという感覚は、自分を支えてくれると思う。
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