心掛けていること。ー全く嘘ではなくて。
誰かに相談されたときに、私は、その方のその位置から、毎日を過ごす上で、一番生きていき易い考え方で答えようとしている。
別に嘘をついているわけではない。
ただ、いい面をたくさん盛って話すところはあるかもしれない。
それは私から見た真実であるし。
だから、ときに、それはとても親しい行為ではあるけれど、率直に毒舌・・・、というのはできない。
それがブラックユーモア的にそれが許され、率直な言葉として響くときもあるだろう。
でも、その人が致し方なく、その立場からだとどうしてもそうせざるを得ない、ということだったとしたら、それは私は認めるし、それ以上、悩ませるようなことをしたくはない。
ただ、例えば仕事上、あるいは人間関係上、それはないだろう・・・、と思うときには、仕事なら、自分の仕事が全うできるように話しもするだろうけれど、プライベートな人間関係なら、そっと距離を置いて終わる。
喧嘩したり、対立したりするのを好まない。
労力がいるし、疲れるし、それほど相手の考え方に踏み込むのは失礼というものもあるだろう。
第一、自分が正しいかどうかもわからないし。
でも、仕事の上で、それはないだろう・・・、というときには議論を降りる。
とりあえず、それは通らない説だな、と思ったら、降りる。
その降りる方法を身に着けたのは、なんと、娘の小学校の先生との個人懇談会の時だった。
それまでは、結構誠実に、いつでもしっかりと答えることがいいとも思っていたのだけれど、ああ、この人と話していても、平行線だな、と思いもし、また一方で、こちらが一方的に悪いわけでもなさそうだったので、私は、白熱する前に、ちょうど区切りのところで、納得しない気持ちのままだったけれど、では・・・、とにっこり笑って席を立った。
その夏、結構精神的にやられてしまったけど。(笑)
先生もご自分の感情を認めていらっしゃるようだったし・・・。
その後、そういうことが息子にもあり、かつての先輩にお聞きしてみた。
そういうことがあるのかどうかわからないけれど、
ああ、その先生は、彼のことを知らないんだなあ・・・。
とおっしゃった。
その通りだと思った。
先生にはそう見えているんだな、と思った。
誰だって、自分の付き合ってきたタイプの範疇から外れる人間の言動を理解はできないだろう。
また、そういう人からの話を私がまともに聞いてしまうのも違うだろう。
私は、私が知っている子どもの像と、先生が語られる像との違いを思ったが、そういう風に受け止められるのもわかるかな・・・、と思った。
でも、違うな、という面もあって、ああ、それはいつか分かってもらえるかもしれないし・・・、と思った。
でも、先生と対立していたのではない。
我が子を理解していただきたくて、できるだけ先生のそばにいるようにしたし、飲み会でもよく話すようにした。
娘の担任の先生と息子の担任の先生が、家庭訪問で時間差でいらして、それぞれ3人が顔を合わせることになったことがあった。
実は3人とも、年齢は同じだと知っていた。
小学校の先生と、かつて高校の先生だった中学校の先生と、かつて高校教師だったけど、当時予備校勤務だった私。
で、同級生、で、一方的にお世話になっている側の私。
お二人とも考え方が全然違っておられた。
そして、それでいいのだと思っていた。
先生方の考え方に対立したことなどない。
ただ、わかってほしくて、仲良くしようとしていたけれど。
私は、自分が先生方に対立していく気持ちを持つ方が絶対子どもたちに良くないと思っていたので、できるだけ、自分が尊敬できるように工夫していたのである。
知らないんだな、という言葉。
これはどこにいてもあり得ることだと思う。
みんな育った環境も、考え方も、それから、それぞれのご家庭の信条も違うから。
そんな中で話のできるところを増やして言って、その人と共通の話題で、なんとか話せるようになるということは大事なのではないかな、と思う。
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