日常の中での求道心
先日、永平寺へお参りに行った。
私はお寺が好きである。
実はある年、高野山に登ったことがあった。
小さいときから何度も家族に連れていかれていた高野山はなじみ深かったが、その時の私には違う理由があって行ったのである。
そこで、どうしてもたどり着きたいお墓があり、どうってことなくそこに着いてしまったとき、もう、自分よりも先に来ておられる方があることを知り、ああ、やっぱりな、となった。
高野山の参道で、お坊様に声を掛けられた。
何となく私の信心のこころが響いたように思えるお声掛けであった。
私は、今、特定の宗教を信じているわけでもない。
ただ、先日の永平寺参詣の折、法要のときに、どうしようもなく修行僧を羨ましく思っている自分がいたのも事実である。
私の場合、その信仰の対象は、ある意味なんでもいい。
人間というものを知りたいし、この世の真理を知りたい。
その方法は心理学や哲学などいろいろあるし、書物を読んだり、勉強したりということは続けてきた。
けれど、体得、ということになると、やはり修行というのは身に着いたものとなるのだろう、と思っている。
私は私で、自分の修業の仕方で学んできたつもりである。
日常生活の中で。教育活動の中で。
もっと言うなら毎日のお料理の味付けだって、家族のことを思えば、修行の対象である。
かつて、少し江戸期の日本文学を専門としていた関係もあって、芭蕉と蕪村の生き方について考えていた。
芭蕉は僧形になって、俳諧という芸術を完成させるべく、それを専門として、命がけで旅に出る。
一方、蕪村は、画家としての立場もあり、パトロンに一杯飲みましょう・・・、というようなことも言うような、世俗に生きていた人である。私はどうも、日常生活の中で自分自身の芸術を完成させようとする方が好きである。
専門とする、ということはそのことに専念できるという意味では純度が高く、また、体得できるものも多いだろう。
でも、私は生活に通じてこそだと感じるのである。
机上の学問であってはいけない、と言われたことがあるように、私の場合、修行も日常生活の中で、自分の修業として行っていきたい。
少しのやせ我慢もありながら、人の我や欲望の渦巻く俗世間で生きながら、その中で自分を鍛えて行きたいと思っている。
父と母のおかげで、永平寺に参詣できた。
かつて目的があって、一人で登った高野山の時とはまた違うものがある。
けれど、父や母の思いを引き継ぎ、悟るべきことを悟り、私は生きて行きたいと思わせてもらった。
どこかで自分の信念を忘れていたなあ・・・、と思わされるきっかけになった。
亡き父のおかげかな、と思っている。
お経を読むことが好きである。
ついでながら、お祈りが上手だから、もう一週間、週番やってほしいと先輩に頼まれたときは、本当に嬉しかった。
お祈りはいい。
どこか、心を整えてくれる。
お祈りが上手、か。
ならばその中身も素敵なものであったらいいな。
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