理解するということ
理解もせずに怒ってはいけない・・・、と若いころに言われたからか、まず不快なことがあったら、とりあえずその相手についてできるだけ理解するように努めている。
咄嗟に怒ってしまったら、相手が言いたいことなどこちらに伝わらないので、とりあえず理解しようとする。
ほぼほぼ職業病である。
若いころは、大学時代の友人に、
お前は鋭すぎるんや!
と言われたくらい、感情的にも思考的にも、さっとつながってよく怒っていたと思う。
今は、あれ?と思った瞬間に怒らないことを選択しているような気がする。
その次に相手は何を言おうとしているのだろうか?
と考えるので、その時の不快な気持ちを新鮮なまま味わうということがない。
これはこれで問題なのではないだろうか?
だから、嫌い、という言葉もなかなか使えない。
昔は、
お前は自分の気持ちを頭で整理してからしゃべるから、とも言われた。
本当の気持ちは?
と訊かれて、わからないこともあった。
最近、生徒を叱る段になって、ああ、感情を入れない叱り方、っていうのも良くないなあ、と思うようになった。
あなたを思うあまり、怒ってしまう、というほうが伝わる、ということもあるだろう。
ただ、先日、ある生徒が、あることを指摘してくれて、私が結構負担になっている感情めいたことがあるのだなあ、と気付いたことがあった。
そのことを思うだけで、教室に来るのがちょっと辛いときもあった。
指導は好きで、教師席に座ると、どこで何があっても、シャキッとするし、明るい気分になる。
こういう仕事をしていると、無用に頼られてしまい、ある種ちょっと境界線を越えるような感情を向けられることもある。
それを予備校の同僚は、うまく表現していた。
私は嫌なことは思考で認めないところがあるので、女子生徒の指摘で、ああ、そうか・・・、と思った。
こんなことでそうなら、人から見てそうなら、結構今までにもあったな、という呑気さで、私は嫌なことは認めずに、思考で拒否して、感情に入れないようにしてしまう。
だから、何もない、ということになるし、後で考えたらそう、という、現実には何もなかったことにしてしまう。
わかれば対処の仕方がある。
よりシャキッとした態度で指導するだけで、サバサバめいた表現を努める。
受験期、誰だって揺れる。
揺れる受験生になんとも私的な感情を向けて、その後輩になるべく頑張っている女子生徒に仕返しされた数学教師もいたけど、その先生は、難関私立高校の数学の過去問を毎日持って来られるという罰を与えられ、その女子生徒は見事、受験前に女子生徒の心を揺らそうとした罪を成敗し、見事後輩になるという暴挙に出た。
おそらく、当時から、勝手に好きにならんといて!
というのが格言だったのだろう。
隙にもいろいろある。
お姉さんもお母さんもある・
でも、受験前の生徒に、あれは良くなかったなあ・・・。今なら母が訴えても仕方なかった案件である。
時代が変わったのを感じる。(笑)
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