身に着けるためには、ある程度の期間が必要であるということ。ーあるいは効果が出るために。
いろんなことをやってみる。
時にはすぐに身に着いたり、楽しくなったりすることもあるだろうけれど、この時期に少しばかり困難で、その後すっと入る込むようなことの方が、そののちにのめったりハマったりしやすいような気がする。
だいたいみんなにとってお手軽でやりやすいものが、そう多くの楽しみをもたらしてくれると思えないし、それは自分で生み出した喜びだとは思えない。
私はだから、入り口はちょっと難しめの方が好きである。
難しいけど、ウンウン唸って、その先に道筋が見えたときの喜びったらない。
今は大好きなお料理も、最初は切ることから始まった。
なぜか私の料理修行の初めの場面では、実家の父が出てくる。
どちらかと言えば、ピアノを弾いたり勉強したりしがちな娘に、お料理をできるだけ早く仕込んでおこうと思っていたのかもしれない。
ちょっとしたそうめんをお皿に盛りつけるときの工夫、ほうれん草を茹でるときのちょっとしたこと。
思えばあれこれ似たところがある父と私だった。
だから、高2の冬、学校の課題として出された家庭科のホーム・プロジェクトでお節料理の研究をしたとき、初めて作った昆布巻きを一番たくさん食べてくれたのは父だった。
あの昆布巻きは、何度も何度もに直した。身欠きにしんの幾分生のものを勧められて使ってみたけれど、あまり上手にはできなかった。
私の前では褒めてはくれないのに、母からは、
お父さん、真弓の作った昆布巻き食べる・・・、と喜んでるやん。
と言ってくれた。
また、母の入院中、実家の世話に帰っていたときも、全然褒めてはくれないのに、病院に持って行った、これもなぜか昆布の佃煮を、上手にできてる・・・、と褒めてくれていた、と母に聞かされた。
大学を卒業して、寮に入ってからも、家に帰ってお節料理を作ったりしていた。
レンコンを摺って作るお菓子を初めて作った。食紅を使って、羽のようにデザインした。
学校の勉強を通して、父や母に教わってあれこれ勉強してきたお料理。
こうして書いてみると、自分が習得してきたことにもそれぞれ思い出があり、そのきっかけがあり、人との関りがある。
それを、この辺にしておこう、ともう少し手前で止めておくこともできたけれど、その当時は結構一生懸命だったのだろうと思う。
レンコン一つを手にしても、長芋一つを手にしても、その食材食材に思い出がある。
おいしそうに食べてくれた人の顔も思い浮かぶ。
結局、自分の人生を楽しませてもらってきたのだなあ、
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